歴史観

歴史観への客観的な意見はとても難しい。
以下は私の考えです。

歴史には、実際にあったことを後世に伝えていくという側面がある。
あったことそのままなのだから人為的な創作をしなければ歴史は動かしようがない。
 
しかし、実際に歴史は権威者によってかなり捏造されてきた、というのが多い。
国によって、民族によってもかなり差がある。ある国は王の傍に書記官がいて、書かれたことは改ざんされないために王も見ることができなかった。

範囲があまりに膨大なので、
一つに絞る。

このようなことがある。
正しい人が正しくないとされ断罪される。
偽善者が正しいものとされる。
あまり言いたくないが、今年のニュースだけでも、私たちの国は古くからの悪質な権威体制があり、ごまかす、隠蔽する、嘘をつく、過ちを認めない、都合の悪いものは隠す、あるいは他の人のせいにする・・・このようなことをばれなければ平気で行い、隠し通そうとする。(教育界、政治、経済会、原発事故…

開かれた世界になって、私たちはある程度、事実は追求されることになっている。
しかし、何千年、何百年という歴史ではどうだろうか?
多くの真実が埋もれてきている。「事実を曲げられた人達の無念、悲しみはいかほどであろうか)。

事実を曲げ、偽りを正しいとし、正しかったものを罪に定める。
それであるなら、人々の歴史観はどうなるのだろう?
後世の人々は何を先代から学ぶのであろうか?それが積み上げられていく。歴史となり記録される。
愛国心とは、どのようなものになるのだろう。
さらには、このような千年以上の積み重ねが、神様の前で(人に対してもだが)罪を悔い改めることが出来ない、非常に鈍感、ということにも影響しているのではないかと私は思った。

一つのことを思う。
イスラエルはその罪が積み重なり、ついには国がなくなってしまった。
聖書は、神様の御言葉であると同時に、全く正しい歴史を記録してきた。
「全く正しい歴史を記録されてきた」、というのは何という恵みであろうか?
誰が、あるいは国が、どのような正しいことを行い、また罪を犯したのか。あるいは罪を悔い改めたのか。
どのような過ちであったのか。そしてなぜ今の時代がこうなったのか。
後世の人が読んでわかるのである。また、学ぶことができる。
どこで間違ったのか、そこに戻ることができる。
何という大きな恵みだろうか。

次も個人的な考えです。
日本ほど歴史を遡れない国はあるのだろうか? (さかのぼり日本史というNHKの番組があるが)。
日本書記は「我が国最初の歴史書である」しかし、内容は神話である。

天武天皇あたりはどうなのだろう。記録がないようである。
ある権威者たちは自分の氏族の正当性を作るために、歴史書を造作改ざんしたことは疑いようのない事実である。
歴史家たちは当たり前によく知っている。聖徳太子も架空の人物である可能性が非常に高い。
(馬小屋で生まれたり、死人が蘇ったり、聖書を真似してることは間違いない)
・・・この話はこのあたりでやめます。

聖書は、神様の御言葉です。
歴史は、過ぎ去ってしまったのだから、全く正しい歴史を振り返ることはできない。
信仰によって聖書を見る。
主は私たちに愛と、正しさ、正義とは何か、教えてくれる。
どこからきたのかも。
さらにはどこに行くのかも。
主に感謝捧げます。