命の尊さ1

本日、大震災から2年を迎えました。震災後大変親しくなったある人に電話を入れました。

今月に入り、命の尊さというものを改めて考えることがありました。
9日には、私の娘も1歳の誕生日を迎えました。前日の夜、布団の中で一歳になる子供のことを考えながら、
人の命の尊さ、人の一生、幸せ、等を考えました。
・・・私たちの目から見れば不幸にも幼くして亡くなる子供がいたり、身近な方が突然亡くなるということがあります。
子供が健康に成長し、生きていくということが決して当り前ではなく、大変難しいということ。それは大きな恵みであること。
・・・今回はメッセージ風に書いて行こうと思います。
ルカによる福音書18:15〜17
18:15イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。16しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われたお。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。17はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

考えてみると、
私が結婚できたこと、
お父さんになったこと、
4月から子供が保育園に入ることになったこと、
・・・若い時は考えられないことでした。奇跡のようなことです。
韓国では、子供が産まれて100日になった時に家族親族で大きなお祝いをします。私は何度もそれを見てきました。
初めはどうしてそのようにお祝いするのですか、と尋ねたところ、昔は韓国では子供が生まれても100日にならないで死ぬ子があまりにもたくさんいたため(病気や、栄養失調等だと思います、日本も同じだったと思います)100日生きたことが当り前ではなくとても幸いなことであり、大変嬉しいことだったのです。このお祝いは今でも韓国では行われています。

私たちが生きているということは、当り前ではなくそれだけでも大変な恵みです。命は主からのもの。
・・・しかし、人は死にたいと思うことがある。
外的な要因、いじめ、倒産、裏切り等、あまりにも苦しいためだ。
内的な要因、人生に意味や目的がないと考えるからだ。それは答えがないからではなく、いくら探しても見つからないからだ。
ヘミングウェイ三島由紀夫芥川龍之介、・・・
どんなにそれを探求し探しても見つからない。そうならば人は生きることに失望し、価値を見いだせず死にたくなる。(私はそう思う)

余談ですが、赤ちゃんを抱いた時にこのように思った。
こんな可愛く、何も知らなく、純粋な子供の表情が、なぜ数年経つとこんな風に変わってしまうのだろうか(周りにいる大人の顔を見て、また生き方が頭をよぎった)、これも相当な奇跡的なことではないか!

人っていったい何なのでしょうか?どこにその価値があるのでしょうか?
詩編ダビデはこのように言っています。
詩編8:5「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。6そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは」。
詩編145:3「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは」。

ゲーテは言いました。あなた(神様のこと)が私を愛するようになってから、私はどれほど価値のある者になったことでしょう。

キリスト教は人本主義ではない。だから人間が最高だ、というのはとても危険な考えだと思います。
キリスト教は言うなら人道主義である。主が私たちを愛するくらい私たちも人を愛そう、ということ。
イエス・キリストの私たちのために死ぬほどの愛、それはあまりに高いものです

・・・続きはまた書きます。相当長いかもです。
とにかく、今日皆さんと私は生きている。
それは神様の大変大きな恵みであるということです。本当に感謝して喜ぶべきことです。
それだけでなく、イエス様を信じ救われ生きているということ。主から大変大きな恵みを受けているということ。

(・・・こう書きましたが、一番の願いはクリスチャンでない人がどうかイエス様を信じて救われてほしいからです。
そのために用いられたらとても嬉しいです。