命の尊さ3

歴史を学ぶと、イエス・キリストが世に来られる以前も、その後の2000年間世界のどの国も子どもたちというのは、とても価値が低いものとして扱われてきたことがわかります。
子どもたちだけでなく、女性、働けなくなった老人たちです。
基本的に戦争に参加できない人々はどの時代も多くの場合、価値が低く扱われ、権力の犠牲になって来ました。
ですから、2000年前、イエス様が子どもたちを大事にし、女性や外国人、犯罪人さえ人格的に扱ったことは大変驚きでした。
エス様が十字架で死なれ、三日目に蘇えられた後、弟子たちや初代教会はこのイエス様の御言葉通りに、子どもたち、奴隷たちを大事にして愛しました。
今月のニュースで、日本の児童虐待件数が年間1万6387人でした。昨年の1.4倍、二年前の二倍です。
心理的虐待、身体的虐待、育児放棄…という順で、ますます増えて来ています。毎日ニュースで見るようです。
(これだけ考えても、この国はたくさんの罪を犯しています。)
命を大事にしない、もう出来ない時代になってきている。
現実的にこの問題を解決しようと思ったら絶望感があります。

仙台にいた時、キリスト教育児院という孤児院を何回か訪れました。ゴスペルコンサート、クリスマスプレゼントしました。
園長先生と何度か話をしましたが、最初の訪問で聞いたことで二つ驚いたことがありました。
1、約100人いること (日本全体で3万をこえます。震災孤児は2000人くらい)、小さい子どもたちがたくさんいました。
2、子どもたちは、親にもう家に帰って来るなと言われても、親に殴られると分かっていても、やっぱり家に帰りたくてしょうがないのだそうです。
これを聞いてショックでした。
こんなに小さい時からこんなに傷を受けて一体どんな人生になるのだろうか。
鈴木園長先生は、それでも子どもたちのために、いつか子どもたちがイエス様信じ、出会ってくれるようにと祈っているそうです。
信仰厚い人でした。
毎週日曜日には子どもたちと一緒に礼拝を捧げています。
…これは目に見えたほんの一部にすぎません。

命の尊さ2

聖書を読んでいきますと、イエス様は本当に多くの人々を愛したことがわかります。イエス・キリストのもとにはいつもたくさんの人々が集まって来ましたが、弟子たち以外にも、人々から憎まれていた徴税人、娼婦たち、また身分や国籍、年齢に関わりなくやって来ました。このような人たちに対してイエス様は神の国について教え、条件なしに神様の聖い愛で愛されました。
このような神様の愛を受け、神様の御言葉を信じた多くの人々は人生が変わるだけではなくイエス・キリストに従って人生を生きて行ったのです。
人が変わるというのは、神様の御言葉を信じ従って行くということと、神様の愛を受ける、この二つがあると思います。この二つがあって人は神様の恵みを受けながら、考え、価値観、生き方が変えられて行くのです。
人は大事にされる時、愛される時に変わって行きます。
不思議なことに、大事にされ本当に愛されたことはずっと忘れないのです。

命の尊さ1

本日、大震災から2年を迎えました。震災後大変親しくなったある人に電話を入れました。

今月に入り、命の尊さというものを改めて考えることがありました。
9日には、私の娘も1歳の誕生日を迎えました。前日の夜、布団の中で一歳になる子供のことを考えながら、
人の命の尊さ、人の一生、幸せ、等を考えました。
・・・私たちの目から見れば不幸にも幼くして亡くなる子供がいたり、身近な方が突然亡くなるということがあります。
子供が健康に成長し、生きていくということが決して当り前ではなく、大変難しいということ。それは大きな恵みであること。
・・・今回はメッセージ風に書いて行こうと思います。
ルカによる福音書18:15〜17
18:15イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。16しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われたお。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。17はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

考えてみると、
私が結婚できたこと、
お父さんになったこと、
4月から子供が保育園に入ることになったこと、
・・・若い時は考えられないことでした。奇跡のようなことです。
韓国では、子供が産まれて100日になった時に家族親族で大きなお祝いをします。私は何度もそれを見てきました。
初めはどうしてそのようにお祝いするのですか、と尋ねたところ、昔は韓国では子供が生まれても100日にならないで死ぬ子があまりにもたくさんいたため(病気や、栄養失調等だと思います、日本も同じだったと思います)100日生きたことが当り前ではなくとても幸いなことであり、大変嬉しいことだったのです。このお祝いは今でも韓国では行われています。

私たちが生きているということは、当り前ではなくそれだけでも大変な恵みです。命は主からのもの。
・・・しかし、人は死にたいと思うことがある。
外的な要因、いじめ、倒産、裏切り等、あまりにも苦しいためだ。
内的な要因、人生に意味や目的がないと考えるからだ。それは答えがないからではなく、いくら探しても見つからないからだ。
ヘミングウェイ三島由紀夫芥川龍之介、・・・
どんなにそれを探求し探しても見つからない。そうならば人は生きることに失望し、価値を見いだせず死にたくなる。(私はそう思う)

余談ですが、赤ちゃんを抱いた時にこのように思った。
こんな可愛く、何も知らなく、純粋な子供の表情が、なぜ数年経つとこんな風に変わってしまうのだろうか(周りにいる大人の顔を見て、また生き方が頭をよぎった)、これも相当な奇跡的なことではないか!

人っていったい何なのでしょうか?どこにその価値があるのでしょうか?
詩編ダビデはこのように言っています。
詩編8:5「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。6そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは」。
詩編145:3「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは」。

ゲーテは言いました。あなた(神様のこと)が私を愛するようになってから、私はどれほど価値のある者になったことでしょう。

キリスト教は人本主義ではない。だから人間が最高だ、というのはとても危険な考えだと思います。
キリスト教は言うなら人道主義である。主が私たちを愛するくらい私たちも人を愛そう、ということ。
イエス・キリストの私たちのために死ぬほどの愛、それはあまりに高いものです

・・・続きはまた書きます。相当長いかもです。
とにかく、今日皆さんと私は生きている。
それは神様の大変大きな恵みであるということです。本当に感謝して喜ぶべきことです。
それだけでなく、イエス様を信じ救われ生きているということ。主から大変大きな恵みを受けているということ。

(・・・こう書きましたが、一番の願いはクリスチャンでない人がどうかイエス様を信じて救われてほしいからです。
そのために用いられたらとても嬉しいです。

歴史観

歴史観への客観的な意見はとても難しい。
以下は私の考えです。

歴史には、実際にあったことを後世に伝えていくという側面がある。
あったことそのままなのだから人為的な創作をしなければ歴史は動かしようがない。
 
しかし、実際に歴史は権威者によってかなり捏造されてきた、というのが多い。
国によって、民族によってもかなり差がある。ある国は王の傍に書記官がいて、書かれたことは改ざんされないために王も見ることができなかった。

範囲があまりに膨大なので、
一つに絞る。

このようなことがある。
正しい人が正しくないとされ断罪される。
偽善者が正しいものとされる。
あまり言いたくないが、今年のニュースだけでも、私たちの国は古くからの悪質な権威体制があり、ごまかす、隠蔽する、嘘をつく、過ちを認めない、都合の悪いものは隠す、あるいは他の人のせいにする・・・このようなことをばれなければ平気で行い、隠し通そうとする。(教育界、政治、経済会、原発事故…

開かれた世界になって、私たちはある程度、事実は追求されることになっている。
しかし、何千年、何百年という歴史ではどうだろうか?
多くの真実が埋もれてきている。「事実を曲げられた人達の無念、悲しみはいかほどであろうか)。

事実を曲げ、偽りを正しいとし、正しかったものを罪に定める。
それであるなら、人々の歴史観はどうなるのだろう?
後世の人々は何を先代から学ぶのであろうか?それが積み上げられていく。歴史となり記録される。
愛国心とは、どのようなものになるのだろう。
さらには、このような千年以上の積み重ねが、神様の前で(人に対してもだが)罪を悔い改めることが出来ない、非常に鈍感、ということにも影響しているのではないかと私は思った。

一つのことを思う。
イスラエルはその罪が積み重なり、ついには国がなくなってしまった。
聖書は、神様の御言葉であると同時に、全く正しい歴史を記録してきた。
「全く正しい歴史を記録されてきた」、というのは何という恵みであろうか?
誰が、あるいは国が、どのような正しいことを行い、また罪を犯したのか。あるいは罪を悔い改めたのか。
どのような過ちであったのか。そしてなぜ今の時代がこうなったのか。
後世の人が読んでわかるのである。また、学ぶことができる。
どこで間違ったのか、そこに戻ることができる。
何という大きな恵みだろうか。

次も個人的な考えです。
日本ほど歴史を遡れない国はあるのだろうか? (さかのぼり日本史というNHKの番組があるが)。
日本書記は「我が国最初の歴史書である」しかし、内容は神話である。

天武天皇あたりはどうなのだろう。記録がないようである。
ある権威者たちは自分の氏族の正当性を作るために、歴史書を造作改ざんしたことは疑いようのない事実である。
歴史家たちは当たり前によく知っている。聖徳太子も架空の人物である可能性が非常に高い。
(馬小屋で生まれたり、死人が蘇ったり、聖書を真似してることは間違いない)
・・・この話はこのあたりでやめます。

聖書は、神様の御言葉です。
歴史は、過ぎ去ってしまったのだから、全く正しい歴史を振り返ることはできない。
信仰によって聖書を見る。
主は私たちに愛と、正しさ、正義とは何か、教えてくれる。
どこからきたのかも。
さらにはどこに行くのかも。
主に感謝捧げます。

日本人と歴史観、そして現在

二週前のことです。
柳先生が、仙台教会で中国部の結婚式の導きをして下さったこと、主日のメッセージをして下さったこと、仙台教会も私も大きな恵みを受けました。本当にご苦労様でした。主に感謝します。

二週間前に私は、三浦綾子さんの「細川ガラシャ夫人」を読みました。教会に昨年からあり、いつものようにふと読んで見ようかと思い、読んでみたら夢中になって読んでしまいました。
…それを読みながら私はいろいろと連想し、あることを悟りました。
そのことを二週間程、祈り黙想してみました。
新たな発見でありとても重要なことだと思いました。
書いて行きます。

天国スマイル

8月も今日で終わります。
主の恵みの出来事があまりに多くありましたが、あれこれしている内にブログは更新していませんでした。
聖音の写真です。
最近撮りました。旧式の携帯で撮りましたが、とてもよい写真が撮れました。
聖音ちゃん、いろいろな方に評判が良いです。よく笑います。
髪の毛はまだまばらです。とくに後ろの方が。一度、丸刈りにした方がよいという賢人からの意見を受けました。
来月あたりにするかもしれません。ちょっと辛いけど、将来を考えたらそうした方がよいかな・・・。